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熊本地方裁判所 昭和60年(ワ)258号 判決

原告 甲野一郎

右訴訟代理人弁護士 三角秀一

同 高屋藤雄

被告 国

右代表者法務大臣 長谷川信

右指定代理人 福田孝昭

〈ほか四名〉

主文

一  原告の請求を棄却する。

二  訴訟費用は原告の負担とする。

事実

第一当事者の求めた裁判

一  請求の趣旨

1  被告は原告に対し、金二五三一万二五五〇円及び内金二三〇一万二五五〇円に対する昭和六〇年五月一九日から支払いずみまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は被告の負担とする。

3  仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

1  主文同旨

2  担保を条件とする仮執行免脱宣言

第二当事者の主張

一  請求原因

1  事案の経過

(一) 原告は、昭和四四年八月二日、別紙(一)記載の事実(以下「当初の訴因」という。)により、熊本地方検察庁検察官によって、熊本地方裁判所に起訴された(以下「本件起訴」という。)。

(二) 本件起訴につき熊本地方裁判所は、昭和五二年四月一九日、原告に対して懲役二年の実刑判決を言い渡した(以下「一審判決」という。)。

(三) 一審判決に対し原告が福岡高等裁判所に控訴したところ、同裁判所は、昭和五五年三月一一日、一審判決を破棄し事件を熊本地方裁判所に差し戻す旨の判決を言い渡した(以下「控訴審判決」という。)。

(四) 差戻審において検察官は、昭和五五年一二月三日、別紙二記載の事実(以下「変更後の訴因」という。)に訴因を変更した(以下「本件訴因変更」という。)。

(五) 本件訴因変更に対し差戻審である熊本地方裁判所は、昭和五七年四月七日、原告に対して無罪の判決を言い渡し(以下「差戻審判決」という。)、右判決は同年同月二〇日に確定した。

2  違法行為

(一) 本件起訴の違法性

(1) 本件起訴における検察官の主張は、原告が訴外興亜火災海上保険株式会社(以下「本件保険会社」という。)に対して被災したと報告した乾海苔四五六万六二〇〇枚のうち、実際に被災した数は一六万一八〇〇枚に過ぎないというものである。

(2) この点につき原告は、被災した乾海苔の大部分は生産者から直接買い取る方法(以下「浜買い」という。)により購入したものであり、その取引は原告作成の海苔台帳の写(以下「本件海苔台帳写」という。)に記載されていると主張していた。

(3) これに対し検察官は、原告に海苔を売ったことのないとの供述を多数の海苔業者から得たほか、本件海苔台帳写が会計学上合理性がないとの公認会計士の鑑定を得、これらの点を立証の骨子として、原告にその主張するような大量の乾海苔の取引がないとの結論を引き出して、本件起訴に至ったものである。

(4) しかしながら、以下に挙げるとおり、これは検察官の浜買いの実態に対する無理解と、本件海苔台帳写の証拠価値の判断の誤りに基づくものである。

ア 浜買いの実態について

浜買いは税金の申告を免れるための裏取引であるから、仮に原告が買い付け先を明らかにしたところで、売主が原告への売買を認めることは有り得ないのであって、検察官が多数の海苔業者から原告への売買を否定する供述を得たからといって、浜買いが実際になされていないということにはならない。

イ 本件海苔台帳写の証拠価値について

本件公訴事実は詐欺という知能犯罪なのであるから、もし原告が本件海苔台帳写に虚偽の記載をしたとするなら、会計知識を有する者が見れば明らかに不合理と判断される本件海苔台帳写を保険金請求の資料として提出するはずはないのであって、本件海苔台帳写が一見不合理に見えることは却って原告が真実を記載したものと考えるべきなのである。しかも、浜買いによる取引は未整理の海苔を一括してなすものであり、これを売りに出す場合に必要な選別のために作成されたものが本件海苔台帳写なのであるから、原告の取引の資料として使用できればよいのであり、会計学上合理性がなくて当然である。したがって、本件海苔台帳写が合理性を有しないからといってその記載が虚偽であることにはならない。

(5) 大量の乾海苔の取引がなかったという点については、ほかにもこれを否定する証拠があった。すなわち、本件保険契約締結当時の担当者は六〇〇〇万円相当の乾海苔が存在していると判断し、本件保険契約が過剰保険でないことを確認している。また、火災直後現場を見分した本件保険会社の審査員も相当程度の海苔の被害を確認している。そして、何よりも、本件保険会社の担当者に本件保険金請求についての被害感情が見受けられない。

(6) 以上の次第で、本件起訴は、当初の訴因につき原告を有罪にしうる嫌疑がなくなされた違法なものである。

(二) 本件訴因変更の違法性

(1) 差戻審における本件訴因変更により検察官の主張するところは、原告の弟である訴外甲野二郎(以下「二郎」という。)の経営する訴外有限会社甲野商店(以下「甲野商店」という。)との架空の取引を本件保険金請求の疎明資料に記載したというものである。

(2) 検察官が、本件保険金請求の疎明資料に記載された甲野商店と原告との取引を架空のものと判断したのは、それに見合う分が甲野商店の帳簿に記載されていないからである。しかし、右取引は甲野商店としてのものではなく二郎個人のものであったのであり、この点に関しては、二郎が、甲野商店としての取引のほかに個人として原告と取引していた分もあったと説明したにもかかわらず、二郎が原告の実弟であることから、その言い分を信用できないと判断したものである。

(3) しかしながら、変更後の訴因も詐欺という知能犯であるところ、原告と二郎の関係からすれば、辻褄の合う資料を作ろうとすればいくらでもできたはずであるのに、そうなっていないのは、却って二郎が真実を語っているからにほかならない。

(4) また、甲野商店は、原告との取引があったことについて昭和四四年三月二九日熊本税務署長から法人税の更正処分を受け、同年五月三〇日に修正申告をしているのであって、このことは、甲野商店から原告主張の乾海苔の購入があったことの証拠となる。

(5) したがって、変更後の訴因についても、検察官は有罪と認められる嫌疑のないまま公訴を追行したものであり、本件訴因変更は違法である。

3  損害 二五三一万二五五〇円

(一) 原告は昭和四四年七月二二日に逮捕されてから同五七年四月二〇日に無罪判決が確定するまで、被疑者及び被告人として、これに対応するための金銭の出費をやむなくされたほか、多大の精神的苦痛を受けたが、その内容は次のとおりである。

(1) 弁護人の費用 八〇六万四〇〇〇円

(2) 記録謄写料 九八万〇五五〇円

(3) 慰謝料 一三九六万八〇〇〇円(一日当り三〇〇〇円)

(二) 弁護士費用 二三〇万円

原告は本件損害賠償請求事件の訴えの提起及び訴訟追行を弁護士に委任し、手数料の支払いを約したが、そのうち本件事案と相当因果関係を有する損害は当初の金額を下らない。

4  よって、原告は被告に対し、国家賠償法一条一項に基づき、二五三一万二五五〇円及び弁護士費用を除いた内金二三〇一万二五五〇円に対する本訴状送達の日の翌日である昭和六〇年五月一九日から支払いずみまで民法所定の年五分の割合による損害金の支払いを求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1は認める。ただし、(五)のうち原告の無罪が確定したのは、昭和五七年四月二二日である。

2  同2(一)について、(1)ないし(3)は認める。(4)は争う。(5)のうち、本件保険会社の担当者が火災直後現場を見分したことは認めるがその余は否認する。(6)は争う。

3  同2(二)について、(1)は認める。(2)のうち第一文は認め、第二文は否認する。(3)は争う。(4)のうち、原告主張のような更正処分のあったことは認めるが、その余は否認する。(5)は争う。

4  同3は知らない。

三  被告の主張

1  無罪判決がなされたことをもって直ちに公訴提起及び公訴維持に過失があったとは言えず、検察官において事案の性質及び内容からみて通常要求される程度の捜査を行い、その結果に対して検察官が各自の識見に基づいて価値判断を加えた上で事実を認定すれば、その事実認定に明白な誤りがない限り、これをもって過失による事実誤認とはいえないと解すべきである。

2  本件起訴及び本件訴因変更は以下に述べるとおり適法であり、検察官に過失はない。

(一) 本件起訴について

(1) 本件訴因に関する争点は、原告が本件保険会社に申告した乾海苔の被災数量が真正なものであったか否かに尽きるものである。

(2) この点につき、原告は、火災で焼失を免れたと称する本件海苔台帳写を根拠に火災時の在庫量が前記申告数量を超えていると主張し、同在庫分については、甲野商店及び熊本、佐賀、福岡の各県下の海苔生産者から仕入れ、原告方の母家や工場内などで保管していたと供述したものの、右海苔生産者の氏名及び取引の詳細並びに従来の販売先の業者の供述を拒み、右生産者との取引は自分一人で行い、運搬も自分でしたこと、仕入代金の支払いは現金又は借入で行ったが、現金の出所については言う必要がないなどと、あいまいな供述に終始した。

(3) しかるに、担当検察官の裏付け捜査により以下の事実が判明した。

ア 本件海苔台帳写の記載と仕入先が判明している甲野商店の帳簿の記載が一致するのは一部に過ぎず、その余の取引については二郎もこれを否定した。

イ 原告が大量の海苔取引を行っていたことを知るものが存在しない。

ウ 熊本、佐賀、福岡各県内の海苔生産者で原告と取引をした者は存在しない。

エ 原告の海苔取引に伴う海苔運搬に関与した運送業者は存在しない。

オ 原告に資金を融通した金融機関は存在しない。

カ 原告の申告した被災海苔の数量及び価格は、同時期のトップクラスの業者の約一〇倍もの不自然な量である。

キ 原告が本件保険会社に提出した「海苔各棟内の収容配置図」は建物の容積と海苔箱の大きさからして物理的に不可能な数量を記載したものと思われる。

(4) また、本件海苔台帳写につき、公認会計士の鑑定により以下の点が明らかとなった。

ア 本件海苔台帳写の残高の記載は、その記帳の方法からして在庫高を正確に表示しているものとは言えず、等級別に乾海苔の在庫高を整理すると本件海苔台帳上の在庫高の数量と大きく食い違ってくる。

イ 乾海苔の等級別の仕入及び売上を検討すると、在庫数量を上回る売上がなされた旨の記載がある。

ウ 取引数量の記載の大部分が万単位の取引となっており、一〇〇単位の取引の記載がわずかしかない。

エ 取引の単価が大部分円単位となっていて、銭単位の端数のある取引はわずかである。

(5) かように、原告の主張を否定し、その唯一の根拠である本件海苔台帳写の信用性を否定する証拠が収集されているのに対し、原告は前記のあいまいな供述に終始し、取引先を明らかにすることを拒否して、容易に行使しうる防御権を行使しないという不自然きわまりない態度を取り続けたのである。

(6) 以上の次第で、本件起訴は、証拠収集を十分に行った上、それらの証拠を正当に評価してなされたものであり、何ら非難されるものではない。

(二) 本件訴因変更について

(1) 本件訴因変更後の争点は、本件保険契約後甲野商店から合計八五万五三〇〇枚の乾海苔を購入した事実があったか否かということである。

(2) この点に関しては、甲野商店の帳簿には原告に合計一六万一八〇〇枚の乾海苔を売り渡した旨の記載しかないところ、捜査段階において二郎は、これらが原告に対して売り渡した乾海苔の全てである旨の供述を行っていたのである。

(3) ところが、二郎は公判段階において、右供述を何らの根拠もしめさないまま翻し、当時二郎個人の取引として原告に約一〇〇〇万円の海苔を売り渡したと証言するに至った。しかし、実態は個人営業と変わらない会社において会社とは別に個人の取引をしていたというのはいかにも不自然であるばかりでなく、その理由に関する二郎の証言は全く要領を得ないものであり、二郎が捜査段階での供述を覆して右証言をした所以は、実兄である原告の刑責を免れさせようとして原告の供述に迎合して虚偽の証言をしたものとしか考えられない。

(4) 甲野商店に対して、昭和四四年三月二九日、原告に対する昭和四一年の乾海苔の売上が計上されていないことを根拠に法人税の更正処分がなされたのは、本件詐欺事犯の捜査を察知した原告らが、税務署の調査に対して迎合する形で罪証湮滅工作に出たためにほかならず、右更正処分をもって原告の弁解のとおり甲野商店との乾海苔の取引があったとする根拠とはなしえない。

(5) 以上の次第で、変更後の訴因によっても有罪判決を得る蓋然性は高かったのであるから、本件訴因変更も適法である。

四  被告の主張に対する認否

争う。

第三証拠《省略》

理由

一  本件事案の経緯

請求原因1は当事者間に争いがなく(ただし、(五)のうち原告の無罪確定日を除く。)、これに、《証拠省略》を総合すると、本件事案の経緯は以下のとおりであったと認められる。

1  本件起訴に至るまでの経緯

(一)  昭和四一年一二月七日午前二時ころ、熊本県飽託郡《番地省略》所在の原告方住宅一棟及び貝灰製造工場一棟が全焼し、同所所在のスサ製造工場一棟も半焼するという火災(以下「本件火災」という。)が発生した。当初は失火事件として捜査が進められたが、その後、本件火災は原告による保険金詐取を目的とした放火事件ではないかとの疑いがもたれるようになり、熊本県警川尻警察署は、同年一二月二三日原告を放火容疑で逮捕し、同月二五日熊本地方検察庁に身柄付で事件を送致した。しかし、熊本地方検察庁は、昭和四二年一月一三日原告を処分保留のまま釈放し、同年四月二七日嫌疑不十分として原告を不起訴処分とした。

(二)  原告は、前記不起訴処分後、昭和四二年五月一八日ころから同年六月二七日ころにかけて、「現在高並びに損害見積明細書」、「海苔各棟内の収容配置図」、「在庫仕入出庫高明細書」、「海苔台帳写」等をそれぞれ本件火災によって被災した乾海苔の数量及び価格算定の資料として、火災保険金請求のために本件保険会社の福岡支店に提出し、同年七月一七日乾海苔に関する保険金として五四七四万四七三九円を受領した。

(三)  これに対し、熊本県警熊本南警察署及び県警捜査二課は、昭和四三年八月ころ、原告の右保険金受領が詐欺ではないかとの風評を聞き込み内偵を開始した。その間、原告は同年一〇月三日施行の天明村村長選挙に立候補して落選した際に行った公職選挙法違反(現金供与)の疑いで逮捕、起訴され、昭和四四年六月九日福岡高等裁判所で懲役八月執行猶予五年の判決を言い渡され、右判決は確定した。一方、原告の保険金詐欺事件については、在宅のまま捜査が進められ、昭和四三年一〇月二八日原告方の捜索・押収を行った後、同四四年二月七日熊本地方検察庁に事件送致された。同庁は送致後も裏付け捜査を進め、同年七月二二日原告を逮捕し、同年八月二日原告の身柄を拘束したまま熊本地方裁判所に当初の訴因で起訴した。

2  本件起訴後の経緯

(一)  熊本地方裁判所は、昭和五二年四月一九日、本件起訴につき、原告を懲役二年に処する旨の一審判決を言い渡した。一審判決は、その理由中において「本件火災による乾海苔の被害数量・価格については、本件はもともと検察官において消極的な間接事実の積み重ねによって公訴事実を立証しようとしたものである関係上、立証上の制約を免れ難いところであり、本件全証拠を検討してみても甲野商店関係分を除いては遂に、その被害数量、あるいはその価格を確定することができない。それ故、原告が本件火災によって被災した乾海苔の数量は、多くとも原告の申告数量・価格である四五六万六二〇〇枚(価格六二六五万八八〇〇円相当)から、被災しなかったことの明らかである甲野商店との取引関係の八五万五三〇〇枚(価格一二六〇万五九〇〇円)を控除した三七一万〇九〇〇枚(価格五〇〇五万二九〇〇円相当)を越えないものと認定した。」旨判示し、本件訴因のうち、検察官主張の被災乾海苔の数量・価格の一部を証明不十分として排斥したが、原告が少なくとも一二六〇万五九〇〇円に及ぶ多額の虚偽の金額を故意に記載した書類を作成して保険金支払いを請求したことは保険金支払請求の手段として社会通念上許容される範囲を逸脱したものであるとして、保険金全額の詐欺を認定したものである。

(二)  控訴審である福岡高等裁判所は、昭和五五年三月一一日、一審判決を破棄し、事件を一審に差し戻す旨の判決を言渡した。控訴審判決は、この理由中において「被災数量・価格が申告数量・価格に満たないことを確定するためには、原告と保険会社との本件保険契約締結当時の在庫数量・価格、保険契約締結から被災に至る間の仕入数量・価格並びにその間の売上数量・価格の諸元を検討し、保険契約締結当時の在庫数量・価格と保険契約締結から被災に至る間の仕入数量・価格がいずれもそれぞれの関係各申告数量・価格に満たないこと並びに保険契約締結から被災に至る間の売上数量・価格がその申告数量・価格にその申告数量・価格未満でないことのすべてを確定するか、又は、全体的な計算上、総量において被災数量・価格が申告数量・価格に満たないことが確定されなければならないところ、一審判決の説示によれば、前記確定すべき諸元のうち、保険契約締結から被災に至る間の仕入数量・価格が、その申告数量・価格を大幅に下回ることは推認されるとしても、保険契約締結時の在庫数量・価格と保険契約締結から被災に至る間の売上数量・価格に関する申告数量・価格と事実の数量・価格との各差額については何ら確定するところがなく、これでは、昭和四一年一一月一〇日から同月三〇日までの前後六回にわたる合計八五万五三〇〇枚(価格一二六〇万五九〇〇円相当)の乾海苔の甲野商店からの仕入れが存在しないことから、直ちに申告数量・価格と同量・同額の乾海苔が在庫しなかったと認定することはできず、また、その他の方法によって全体的な計算上、総量において被災数量・価格が申告数量・価格に満たないことを確定するよすがも発見することができない。」旨判示して一審判決を破棄したが、他方、「原告が八五万五三〇〇枚(価格一二六〇万五九〇〇円相当)の乾海苔を甲野商店から購入しなかったにもかかわらず、故意にこれを購入し、右購入した乾海苔も被災した旨の不実の申告をしたことが認定され、しかも、申告数量・価格が被災数量・価格を越えると否とにかかわらず、右の如き不実の申告をしたこと自体が、保険約款第二七条第二号により保険会社において、原告に対し本件保険金全額の請求を拒否しうる事由となるものとすれば、かかる場合においても原告の詐欺罪は成立するものと解する余地があるので、かかる場合においては、裁判所としては検察官に対し訴因の変更を求める等して、さらに審理を尽くす必要があるものと思料する。」として、事件を一審に差し戻す旨の判決を行った。

(三)  差戻審において、検察官は昭和五五年一二月三日本件訴因変更請求を行ったが、差戻審は昭和五七年四月七日変更後の訴因について無罪とする判決を言渡し、同判決は同月二二日確定した。差戻審判決は、その理由中において「原告と甲野商店あるいは二郎個人との八五万五三〇〇枚の乾海苔取引については、本件証拠上その事実が存在しなかったのではないかとの疑いもかなりあり、原告の本件保険金請求は、実際には存在しなかった八五万五三〇〇枚の乾海苔が在庫して被災したとの内容虚偽の関係書類を作成提出してなされた疑惑も払拭し得ないものがあるが、他方、右取引があったのではないかと窺われる事実もあり、右取引が存在せず、右枚数の乾海苔が被災していないとまで断ずるには種々の疑問も残ると言わざるを得ず、結局本件については原告が保険金を詐取したとは断定できず、なお合理的疑いを入れる余地があり、犯罪の証明が十分でない。」旨判示した。

二  検察官の違法行為について

1  前記のとおり、変更後の訴因については既に無罪の判決が確定しており、変更後の訴因と当初の訴因が公訴事実の同一性を有するものであることは明らかであるから、当初の訴因についても無罪判決の効力が及んでいるものであるが、刑事事件において無罪の判決が確定したからといって公訴の提起・追行が直ちに違法となるものではなく、起訴時あるいは公訴追行時において存在した各種の証拠資料を総合勘案して合理的な判断過程により有罪と認められる嫌疑が存在する以上、公訴の提起・追行は適法と解するのが相当である(最高裁判所昭和四九年(オ)第四一九号、同五三年一〇月二〇日判決、民集第三二巻七号一三六七頁参照)。したがって、かような嫌疑のない公訴の提起・追行が違法と評価されることとなるものであるが、その際、およそ事実認定が各人によりさまざまに分かれうることは不可避であるから、公訴の提起・追行が嫌疑なく違法であるというためには、検察官の起訴時あるいは公訴追行時における各種の証拠資料の評価が、通常生じうる個人差を考慮してもなおかつ行き過ぎで、経験則・論理則に照らして到底合理性を肯定できない程度に達していることを要すると解すべきである。なお、検察官は、公訴事実の同一性を害しない限り、いつでも訴因の変更を請求することができる(刑事訴訟法三一二条)のであるから、本件のように訴因変更がなされた場合には、右のような意味での嫌疑は公訴事実の同一性の範囲内にある訴因のいずれかについて存在すれば足りると言うべきである。

2  そこで、変更後の訴因について、本件訴因変更当時存在した証拠資料により、前記のような意味での嫌疑があったか否かについて検討することとする。

(一)  まず、《証拠省略》によれば、本件訴因変更当時検察官の手元に存在した証拠資料により認定しうる事実は以下のとおりであったと認められる。

(1) 本件火災発生当時の原告の状況

ア 原告が代表者となっている合資会社甲野産業(以下「甲野産業」という。)は、同社の所有する貝灰製造工場の操業により生ずる悪臭、粉塵、騒音に対して、かねてから付近住民から苦情が絶えず、昭和四一年夏ころから住民の苦情を受けて調査に乗り出した熊本県中央保健所により指導を受け、更には、設備改善命令を受けるに至っていたにもかかわらず、原告は右命令を遵守せず、設備の改善が行われないままになっていた。しかも、右公害問題の解決のため、熊本県から原告に対する工場移転資金の融資を各金融機関に斡旋することとなったが、原告の以前の融資資金に対する返済状態が悪い等の理由で金融機関により拒絶されるという経緯もあった。

イ 甲野産業は、資本金五〇万円で、原告のほかは同人の妻及び二郎夫婦を社員とするのみの企業であり、実質的には原告の個人経営であったところ、本件火災前、銀行、知人、親戚等からの借入金が相当ある一方、毎年赤字続きという業績不振の状況にあった。当時の取引銀行の甲野産業に対する信用は低く、高い金利を取る一方、手形の割引きにおいても極度額を設けず個別に審査するというやり方を取っていたところ、昭和四一年一一月二五日には原告からの六〇万円の運転資金の融資申込を断ったという経緯もある。その他、取引先から手形貸付を受けたり、融通手形の交付を受けたりすることで相当額の資金繰りを行っており、甲野産業の資金繰りの逼迫していることが窺われる状況であった。

(2) 本件保険金支払いに至る経緯

原告は昭和四二年五月から六月にかけて、本件保険会社の福岡支店に前記の疎明資料を提出するとともに、保険金請求の手続をとったものであるところ、同支店は、本件火災直後から、損害鑑定のための調査を継続した結果、出火原因及び乾海苔の在庫量について疑問を抱いたものの、放火事件が不起訴となったうえ、原告が取引相手の氏名及び取引の詳細についての説明を拒否し、提出資料は正確である旨強く主張したので、それ以上は調査の限界と判断し、焼け跡に一応乾海苔及び海苔箱の焼け屑があったほか、本件火災前に海苔箱を購入したとの従業員の証言もあり、原告の主張に対する特段の反証もないことから、前記各資料に記載された量の乾海苔があったものと認めざるを得ないとの結論に達し、本件保険金の支払いを行った。

(3) 本件火災現場における乾海苔の被災状況

本件火災直後に行われた実況見分の結果には乾海苔の被災状況に関する記述が見られないので、同調書から乾海苔の被災の有無や数量を推認することはできないものであったほか、本件火災直後現場を訪れた本件保険会社社員らの目撃証言及びその際に写された現場写真によっても、相当数量の乾海苔が被災したことは認められるものの、その被災数量については確定することは不可能であり、結局、変更後の訴因で問題とされる甲野商店からの仕入分が当時存在したか否かは、火災現場の状況や関連証拠から断定することはできず、右乾海苔の被災の有無は、その仕入状況や火災前の在庫状況等に関する証拠を総合検討してこれを確定する以外に方法がなかった。

(4) 原告が保険金請求のために提出した書類の記載内容

ア 「現在高並びに損害見積明細書」には、本件火災による収容乾海苔の被災数量は、元母家内に三〇一万七六〇〇枚(価格四四三〇万九〇〇〇円)、スサ工場内に一〇七万八〇〇〇枚(価格一一九三万二〇〇〇円)、海苔工場内に四七万〇六〇〇枚(価格六四一万七八〇〇円)、以上合計四五六万六二〇〇枚(価格合計六二六五万八八〇〇円)である旨記載されており、これを基礎にして乾海苔に対する火災保険金として五四七四万四七三九円が支払われている。

イ 原告が保険金請求の疎明資料として提出した書類一綴の中に「海苔各棟内の収容配置図」(以下「収容配置図」という。)があり、それには、被災建物のうち元母家に六二三箱、スサ工場に二四五箱、海苔工場に一一五箱の海苔箱が収容されていた旨記載されている。

ウ 収容配置図と同一綴りの書類に「前記日より罹災時(四一年一二月七日)の間の仕入及出庫高(仕入先及び出庫先を明記のこと)の収支明細書」と題する一覧表があり、その中に「甲野商店との間の収支明細(保険契約時より罹災日迄)」と題する表(以下「収支明細書」という。)があるが、それによると、原告が、昭和四一年一一月一〇日から同月三〇日の間に六回にわたり合計八五万五三〇〇枚、同年一二月五日に一六万一八〇〇枚、合計七回にわたり総計一〇一万七一〇〇枚(価格一四八八万一四四〇円相当)の乾海苔を甲野商店から仕入れた旨の記載がある。他方、甲野商店の帳簿には、原告に対し、昭和四一年一二月四日に一六万一八〇〇枚、代金二二七万五五四〇円の売上があったとの記帳はあるものの、収支明細書に記載されているその余の取引の記帳はない。そこで、検察官は、右帳簿記帳分の取引の事実の存在を認め、変更後の訴因からそれを除き、結局、収支明細書の記載のうち八五万五三〇〇枚の仕入の記載が虚偽であると主張しているものであるところ、本件火災保険普通保険約款には、保険金請求手続に際し、保険契約者等が損害見積書や証拠書類等に不実の記載をしたりこれを偽造したりなどした場合には損害の填補請求権を失う旨の規定があり、右甲野商店から仕入れたという乾海苔合計八五万五三〇〇枚分の被災が虚偽であったとすれば、右失権条項の適用を受け、右虚偽記載の分のみならず、前記受領にかかる保険金五四七四万四七三九円の全額につき詐欺罪の成立する余地があった。

エ 原告が本件保険金請求の疎明資料として提出した海苔台帳写には、昭和四〇年四月一日から同四一年一二月五日までの取引関係の記帳がなされているところ、昭和四一年一一月分の取引としては、収支明細書において甲野商店から仕入れたとされる八五万五三〇〇枚に関する直接の記帳はないが、右取引を含めたと思われる大量の取引の記帳がなされている。

(5) 甲野商店に対する法人税更正処分

熊本税務署長から甲野商店に対し、昭和四四年三月二九日付で、同四一年七月一三日から同四二年六月三〇日及び同四二年七月一日から同四三年六月三〇日までの各事業分の法人税につき、同税額等の更正通知及び加算税の賦課決定通知がなされたが、それについては、税務当局からは、原告への売上が帳簿に記載されていないからであるとの説明がなされた。

(二)  前記認定のとおり、原告は、甲野商店から、昭和四一年一一月一〇日から同月三〇日までの間前後六回にわたり、合計八五万五三〇〇枚、同年一二月五日に一六万一八〇〇枚の乾海苔を仕入れた旨収支明細書に記載し、それに副う収容配置図を作成し、疎明資料として海苔台帳写を提出して本件火災保険金を請求しているものであるところ、乾海苔の被災数量を直接立証しうる証拠はなく、甲野商店から仕入れたとする乾海苔の被災の有無は、その仕入れ状況や火災前の在庫等に関する証拠を総合検討してこれを確定する以外に方法のないことも前記のとおりであるから、変更後の訴因について有罪の嫌疑があったか否かを判断するについては本件訴因変更当時、前記の収支明細書、海苔台帳、収容配置図の信用性に関する証拠がいかなるものであったかを鑑定することが必要となってくる。そこで以下それらの信用性につき検討する。

(三)  収支明細書の信用性

(1) 収支明細書中、前後七回にわたる甲野商店からの乾海苔の仕入れのうち、甲野商店側の帳簿に記帳されているのは、昭和四一年一二月四日の一六万一八〇〇枚の一回に過ぎないことは前記認定のとおりであるところ、《証拠省略》によれば、この点につき、二郎は、捜査段階において、「甲野商店の帳簿には表も裏もなく正直に記帳しており、原告との乾海苔の売買も記帳していたが、原告との乾海苔の売買に関しては甲野商店の記帳の方が正しい。昭和四一年一一月から一二月ころにかけて原告と大量の乾海苔の売買をした記憶はなく、原告と甲野商店との取引は会社の帳簿に出ている通りであるし、二郎個人の取引を併せても収支明細書に記載してあるような大量の取引をした記憶はない。」旨供述しているほか、二郎の妻の訴外甲野花子(以下「花子」という。)も検察官に対し、「原告に頼まれたり、甲野商店の都合で原告との取引を故意に帳簿に載せなかったという記憶はない。」旨供述していることが認められる。また、《証拠省略》によれば、税理士である訴外吉田均(以下「吉田」という。)は、「昭和四二年八月ころ甲野商店の税務事務を担当し、同四一年七月一三日から同四二年六月三〇日までの間の甲野商店の会計決算を行って現金出納帳及び総勘定元帳を作成したが、その際、同四二年七月一七日及び一九日の二回にわたり、原告から二郎の預金通帳に総額一九三八万八二四〇円の入金がなされていることを知り、その趣旨につき二郎に説明を求めたが、二郎は、右金額のうち一二二五万一〇四〇円が乾海苔の代金であり、帳簿に記載してある二二七万五五四〇円が同年一二月四日に売り渡した乾海苔一六万一八〇〇枚の売掛に対する入金であり、残りの九九七万五五〇〇円は甲野商店を設立した同四一年七月一三日以前の二郎個人の売掛金であると説明した。」旨供述していること、しかも、二郎も捜査段階においては、「昭和四二年七月に原告が保険金を受領してから、一九〇〇万円強の支払いを原告から受けたが、当時海苔の売掛代金が一二〇〇万円強あり、そのうち一〇〇〇万円弱が甲野商店設立前の個人営業時代の売掛金であり、残りの二〇〇万円強が甲野商店設立後の売掛である。」旨、吉田と同趣旨の供述を行っていたことが認められる。

したがって、右各供述内容が信用できるとすれば、検察官主張のとおり、原告と甲野商店との間には、昭和四一年一一月から一二月にかけて、甲野商店側に記帳のある一六万一八〇〇枚の取引を除き、前後六回にわたる合計八五万五三〇〇枚もの大量の取引は存在しなかったものと認めざるを得ないこととなる。

(2) ところが、《証拠省略》によれば、この点に関して原告は、「二郎とは従来から乾海苔の取引があったが、当時二郎は甲野商店を設立したことは知らず、取引の相手が二郎個人なのか、甲野商店なのかは気に掛けていなかった。本件火災後、二郎から二通の請求書を受け取ったが、一通は二郎の字で学生用のノートのようなもの、もう一通は花子の字で市販の請求書であった。二郎に二通になっている理由を尋ねると、一通は表で甲野商店としての取引、他は裏で個人としての取引であるという説明を受けた。収支明細書中、甲野商店との取引は、自分の記憶とほぼ合致していた右二通の請求書に基づいて作成したものである。この二通の請求書は海苔台帳にはさんでおいたところ、海苔台帳とともに紛失してしまった。」旨供述していることが認められる。そして、《証拠省略》によれば、二郎も、公判廷においては、前記捜査段階の供述を翻し、「甲野商店設立後も並行して個人として乾海苔の取引をしており、甲野商店の取引については花子が会社用の帳簿につけ、個人の取引は自分で学生用のノートにメモをしておいた。昭和四一年一一月から本件火災発生までの間、個人として原告に乾海苔一〇〇〇万円以上を販売した。本件火災後、原告に対し、乾海苔代金の請求書を渡したが、一通は花子の書いた甲野商店の分、一通は自分がノートから書き写した個人としての取引の分であった。個人の取引を記載していたノートは、その後公職選挙法違反容疑で逮捕勾留された後、自宅に戻って探したが見つからなかった。昭和四四年七月、二回にわたり原告から合計一九九三万八三四〇円の支払いを受けたが、このうち一二二五万一〇四〇円は乾海苔の代金で、うち売上帳に計上してある二二七万五五四〇円が甲野商店としての売掛金であり、残りの九九七万五五〇〇円が個人としての取引である。」旨、原告の前記弁解に副う供述をしていることが認められる。

(3) しかしながら、《証拠省略》によれば、甲野商店は二郎が妻と二人で業務に従事しているのみで他に従業員はいないという小規模な会社であって、実体は個人営業を会社営業に切り替えただけのものであることが認められるところ、そうであるなら、せっかく会社組織にしたのに、甲野商店設立後も二郎個人としても大量の乾海苔の取引をしていたというのはいかにも不自然である。《証拠省略》によれば、この点に関し二郎は「会社の経歴が浅いのでとにかく分けていた。会社を作って長くないのでごたごたしていたこともある。浜買いをするときなど、相手方に個人で取引して欲しいと言われることがあった。」等と説明していることが認められるものの、それを首肯するには全く要領を得ないものと言わざるを得ない。しかも、会社と個人の取引についての別々の請求書は後日紛失してしまったなどと供述しているのであって、二郎が実兄である原告の刑責を免れさせようとして、捜査段階での供述をあえて覆して原告の弁解に副う証言をした疑いも否定できない。

なお、《証拠省略》中には、捜査段階における二郎の供述は、そのように供述しないと共犯として逮捕・起訴する等と捜査官に脅迫されたからに違いないとの供述部分があり、《証拠省略》によれば、二郎自身も公判廷でそのような弁解をしていることが認められる。しかしながら、二郎の検察官に対する供述は甲野商店の経理担当であった吉田の供述とも一致するものである一方、二郎の公判廷での供述が不自然・不合理であることは前記のとおりであるから、かような点に照らせば二郎が捜査官に脅迫されて虚偽の供述を行ったとの原告及び二郎の前記供述部分はにわかに採用し難く、他にそのような事実を窺わせるに足りる証拠はない。

また、原告は、二郎と原告が共謀したとするなら、もっともらしい書類を作成できたはずなのにそうでないのは、二郎が真実を語っているからにほかならない旨主張しているが、二郎は当初は原告の弁解とは矛盾する供述を行っていたのであり、また必ずしも本件保険金請求の段階で共謀がなくとも、二郎が原告のために後日その供述に副う証言を行うことはありうるのであるから、このことが、二郎の公判廷における証言の信用性を捜査段階の供述よりも高める事情であるとも言えない。

(4) したがって、収支明細書については、その信用性に重大な疑問があり、このことは、原告が甲野商店との取引について虚偽の資料をもって本件保険金請求を行ったとの変更後の訴因についての検察官の抱いた嫌疑が、合理的であるが、少なくとも、通常生じうる個人差を考慮しても行き過ぎではないことの根拠となりうるものであることは明らかである。

(四)  本件海苔台帳写の信用性

(1) 原告の供述

《証拠省略》によれば、原告は、この点に関し、「海苔台帳は昭和四〇年ころから作成していたが、海苔取引については、他に日計表と仕入帳を作成しており、日計表というのは、浜買いの現場で当日扱った乾海苔全部につき、仕入先、等級、単価、枚数を記載したもので、仕入帳には、日計表の記載を基礎として、単価に運賃等の経費を加えた平均価格を記載したものである。そして、海苔台帳には、仕入帳の記載を基礎として、乾海苔の等級を自分なりに選別し直し、仕入帳の単価に利益を加えた単価を計算し、これを借方に記入する一方、貸方には実際に売れた等級と単価を記入する。借方と貸方は必ずしも一致しないが、実際の在庫と比較すれば、販売状況は把握できる。本件火災当日たまたま海苔台帳は自分の手元に置いてあったので焼失は免れたが、日計表と仕入帳は焼失した。保険会社には、海苔台帳を花子に書き写してもらい、それをコピーしたもの(本件海苔台帳写)を提出した。本件海苔台帳写の原本は、その後、選挙違反による捜索差押を受けた後、紛失してしまった。」旨供述していることが認められる。

(2) 海苔台帳写の原本の存在について

《証拠省略》によれば、本件火災保険の締結にあたり原告と交渉した本件保険会社の担当者である訴外松田英一(以下「松田」という。)は、「保険契約締結の際、原告から海苔台帳なるものを見せられたが、その体裁は、保険金請求の際に提出された海苔台帳の写と同じものであり、急に作成されたものではなく、取引の都度記入されたもののように思えた。昭和四〇年一二月から同四一年三月ころまでの在庫の記帳は多いときで六〇〇〇万円にのぼっていたので、実際の在庫を確認したわけではないが、海苔台帳に疑問は抱かなかった。」旨供述しているところ、本件保険会社の損害査定係の和田太雄(以下「和田」という。)も、本件火災直後に原告から海苔台帳という帳簿ないしは海苔の仕入元帳を見せられたと供述しており、更に花子も、差戻前の第一審において、本件海苔台帳写作成の経緯につき、「原告の依頼により、同じような体裁の帳簿からそのまま転記して海苔台帳の写を作成した。」旨供述していることが認められ、これらは、一応、本件海苔台帳写の原本が存在したことを窺わせる証拠であると言える。

(3) 海苔台帳写の信用性について

しかしながら、他方、以下に挙げるように、本件海苔台帳写の信用性について、それを否定する方向に働く証拠もあった。

ア 《証拠省略》によれば、浜買いの場合、取引される乾海苔の枚数に端数が出ることが多く、また一般に乾海苔の単価には円未満の端数がつくのが普通であるのに、本件海苔台帳写の記帳には、枚数につき一〇〇枚以下の端数がつく取引が少なく、また単価についても円未満の端数が少ないことが認められ、本件海苔台帳写が急遽作成されたものではないかとの疑いがないわけではない。

イ 保険金請求に際し、海苔台帳の原本でなく、わざわざ花子に転記させた写を提出したというのもいかにも不自然である。もっとも、この点に関しては、《証拠省略》によれば、原告は、同人の字が読みにくかったため、本件保険会社の方から清書するよう言われたので、花子に転記するよう依頼したと弁解していることが認められる。しかし、当然のことながら私人の手による写は、複写機による場合と比べ、証明力ははるかに低く、しかも、花子が判読して転記できる程であれば、本件保険会社の方でも充分理解できた筈であり、右弁解をもってしても前記の不自然さは払拭できない。

ウ 原告が海苔台帳の原本が紛失したと供述し、原本の存在それ自体につき確認する方法のないことは前記認定のとおりであるところ、右紛失に至る経緯に関する原告の供述も不明確であって、原本が存在しなかった疑いすらない訳ではない。

エ 《証拠省略》によれば、本件海苔台帳写の記帳上、昭和四一年一一月中の仕入量を合計すると、枚数にして四四七万枚、金額にして六七七三万五〇〇〇円もの大量取引に達するところ、右数量は、熊本県漁業共同組合連合会が把握する同期間の熊本県下における海苔収穫量の約二四パーセントにまで達するほか、我が国のトップクラスの海苔業者の同期間の国内仕入量の約一〇倍にあたり、しかも、この間の投下資本が少なくとも五〇〇〇万円に達することが認められるにもかかわらず、前記認定のとおり、当時の甲野産業の経営状態は逼迫しており、原告にはとても右のような多額の取引をする能力がなかったのではないかと思われる。もっとも、《証拠省略》によれば、この点につき原告は、個人の手持ち資金及び個人としての借入でまかなった旨供述していることが認められるが、甲野産業が原告の個人企業であることは明らかであるのに、前記認定のように会社が業績不振で公害問題を抱えていた最中にそのような大量の取引を個人の資金力で行い得たとするのはいかにも不自然であると言わざるを得ない。

また、《証拠省略》によれば、当時、甲野商店を除いて、九州各県漁連の登録業者及び天明村周辺の海苔業者の中には原告と乾海苔の取引をした者がおらず、大量の乾海苔の運搬に必要と考えられる海苔箱については、甲野商店以外に原告に海苔箱を売った者がなく、近隣地区の運送業者中には原告から乾海苔の発送を委託された者がいないことが認められ、かような状況のなかで原告が同業トップクラスの約一〇倍もの取引を行うことは不可能ではないかとの疑いは否定できないところである。

しかも、《証拠省略》によれば、原告は自分が取引をしたという相手方の名前を、二郎及び当時既に死亡していた訴外乙山松夫(以下「乙山」という。)以外は一切明らかにしないという不自然・不合理な態度を取り続けていることが認められるのであって、かような点も原告に対する嫌疑を増幅させたものと言える。もっとも、この点について原告は、原告が行った取引は生産者から直接買い付ける浜買いと言われるものがあり、浜買いは闇の取引であるから、取引の相手方が浜買いの存在を明らかにすることはありえず、原告にとって有利になることはないから言わないだけである旨主張している。しかしながら、原告の主張するような大量の浜買いが真に行われたのであれば、相当部分は裏付けられる可能性はあると思われるほか、自己の刑事責任を免れるためには、それによって後日取引において不利に扱われるおそれがあろうとも自己に有利な事実を供述するのが普通であって、それにもかかわらず取引先を明らかにしないのは、却って、裏付け捜査により取引のないことが発覚することを恐れているのではないかとの疑いさえ生じさせるものであるが、ともかく、かような原告の態度こそ不自然と言わざるを得ない。

また、《証拠省略》によれば、原告は前記のような大量の乾海苔の運搬・搬入・仕訳作業を、従業員も使用せず、ほとんど自分一人の力で行い、唯一人乙山にのみ乾海苔の運搬を依頼したことがある旨供述していることが認められるところ、これもまったくもって不自然としか言いようがない。しかも、実際に前記のような大量の乾海苔を自宅に運搬したとしたら、原告の従業員らがそれに気付かぬはずはないのに、従業員らのうちそのような気配を察知した者は誰もいないことは後記五(2)において認定のとおりであって、これらの事情も海苔台帳写に記載された大量の取引が架空のものであったのではないかとの疑問を生じさせるものと言える。

オ 《証拠省略》によれば、公認会計士の訴外浅枝正隆は、本件海苔台帳写は在庫帳としての機能に欠け、信用性はまったくないと判断しているところ、確かに、海苔台帳写には同人の指摘のとおり、以下のような不合理性があると認められる。まず、借方、貸方の記入に当たっては、買入時の価格又は販売時の価格のいずれかにより共通の単価で計算した金額が記載されているのではなく、借方欄は買入時の価格で、貸方欄は販売時の価格でそれぞれ記入されているため、貸方欄の金額には利益又は損失が含まれることとなり、借方から貸方を差し引いた残高が在庫する乾海苔の価格と一致するはずもなく、これらの金額はほとんど意味のない数字となっている(にもかかわらず、《証拠省略》によれば、原告は前記「現在高並びに損害見積明細書」において、昭和四一年一二月七日火災当時の乾海苔在庫高を海苔台帳写の当日の差引残高に一致させて保険金の請求をなしていることが認められ、このような在庫と全く関連のない金額を使用すること自体、本件保険金請求が虚偽のものであるとの疑いを抱かしめる事柄であると言える。)。また、海苔台帳の摘要欄に購入又は販売された乾海苔の品質・数量が記載されているので、これを品質毎に整理計算しなおしてみると、在庫していない乾海苔を販売したことになり、その数は全体のうち相当大きな割合を占めている。

この点につき、原告は、かような会計学上意味不明の海苔台帳写であっても、原告本人にとっては有効なものであり、またかような一見もっともらしくない書類を保険金請求に使用すること自体、詐欺の手段としてはありえないことである旨主張している。しかしながら、本件海苔台帳写には、その内容自体の不合理性だけでなく、それが保険金請求に使用された経緯及びそれに記載された取引が真実行われたかについて、前記のような数々の疑問点があったのであるから、本件海苔台帳写が会計学上不合理であることは、その信用性を減殺する方向に働く事情ではあっても、それによって本件海苔台帳写の信用性を増強させるものとは到底言い難い。

(4) 以上の次第で、本件海苔台帳写の信用性に関しては多々疑問点があったのであるから、前記原告本人の供述並びに松田らの供述を斟酌してみても、本件海苔台帳写記載の大量の取引が実際に行われたことには重大な疑問があったというべきであり、結局、本件海苔台帳写の記載は、変更後の訴因についての嫌疑を減殺させるものでないばかりか、却って、それを増強する事柄であると言える。

(五)  収容配置図の信用性

(1) 《証拠省略》によれば、海苔箱の大きさは、大が八七×四三×五六、中が六五×四一×四五・五、小が六五×四一×二三(いずれも単位はセンチメートル)であるところ、右海苔箱の大きさと各建物の体積を対比した場合、収容配置図どおりに母家に六二三箱、スサ工場に二四五箱、海苔工場に一一五箱の海苔箱を収容することは計算上は可能であることが認められる。

(2) しかしながら、計算上可能であるということは、収容配置図が虚偽であると直ちに断定できない理由ではあっても、それによって、収容配置図どおりに乾海苔が存在したと断定できる根拠ともなしえないことは言うまでもないところ、却って、《証拠省略》によれば、本件火災発生の前月である一一月二〇日ころ、甲野商店の倉庫から一〇〇個ないし一一〇個の海苔の空箱がスサ工場、海苔工場内に搬入され、更に一二月初めころ、甲野商店の倉庫ないし原告の新居から乾海苔入りの海苔箱約三〇個ないし三五個が母家に搬入された(これらについては、《証拠省略》によれば、甲野商店の売上帳には、一二月四日の原告との取引欄に乾海苔四二箱分一六万一六〇〇枚の売上と、箱代一三〇箱分の売上の記載があると認められ、時期及び数量の点から考えて、それが右空箱及び海苔入りの箱の搬入に対応するものではないかと思われる。)ほかは、甲野産業の従業員らのうち、母家、スサ工場、海苔工場内に大量の乾海苔が搬入されたことを目撃したものがおらず、しかも、元来、スサ工場は入口に施錠がなく、梯子のない屋根裏部屋にも農業機具等が置かれており、海苔工場は機械が設置されているだけでなく、水を使用する場所であり、母家も一部雨漏りがひどかったなど、それらの場所が乾海苔を大量に収納するのに適した場所でなかったばかりか、母家には火災直後の一二月一日まで従業員夫婦が居住しており、同所に大量の乾海苔を保管しうる状況ではなかったことが従業員らの供述により明らかにされていたほか、本件火災後の状況については、スサ工場は完全に燃えてしまったものではないにもかかわらず、同工場の焼け跡からは海苔箱だけでなく、海苔箱の焼け屑さえ発見されず、また、海苔工場にあった海苔箱は三〇箱程度であり、これらは全て運び出されたが、ほとんど空箱であり、その他に同工場の焼け跡から海苔箱やその焼け屑は発見されず、さらに、母家についても海苔箱が搬出されたが、その数は三〇箱程度にすぎず、そのほとんどが空箱であり、焼け跡からは海苔箱のみならず海苔箱の焼け屑さえ発見されなかったばかりか、母家の焼け跡からは海苔の焼け屑が発見されているものの、その量は佃煮状のものがせいぜいザル一杯分程度であったことが火災現場の処理にあたった関係者の供述で明らかになっていたことが認められるのであって、かような点からすると、収容配置図にもその信用性について多大な疑問の存したことは明らかである。

(3) したがって、収容配置図の記載も、本件海苔台帳写と同様、変更後の訴因に対する嫌疑を増強こそすれ、減殺させるものでないと言うべきである。

(六)  甲野商店に対する法人税更正処分

昭和四四年三月二九日に至り、熊本税務署から甲野商店に対し、昭和四一年度の原告に対する乾海苔の売上について、甲野商店の帳簿に記載がないとして税務調査のうえ、更正決定がなされたことは前記のとおりである。しかしながら、熊本税務署が甲野商店の原告に対する右乾海苔取引について知るに至った経緯は本件全証拠によるも明かでないところ、原告に対する保険金詐欺の捜査は当時既に着手されていたことは明らかであるから、本件被疑事件の捜査を察知し、自己に有利に展開することを目論んだ原告が税務当局の調査に対して迎合する形で、右取引の存在を自認し、もって罪証湮滅行為に出た可能性は否定できないのである(《証拠省略》によれば、このことは差戻前の一審判決も判決理由中で指摘している事柄であると認められる。)。しかも、税務当局が二郎ないし甲野商店と原告の海苔取引を調査するにしても、結局、捜査当局ないしは保険会社以上の事実調査をなしうる筈もなく、税務調査に対して取引当事者がその事実を認めた場合、通常そのとおりの処分がなされることは容易に推認しうるところであるから、結局、前記のような更正決定がなされたからといって、その根拠とされた甲野商店と原告との取引が真に存在したと断定することは到底できないと言うべきである。

(七)  保険会社の担当者の認識

原告は、本件保険会社の担当者は保険契約締結時及び本件保険金支払時のいずれにおいても、原告が大量の海苔の取引を行っており、本件保険契約が過剰保険でなく、実際に請求のあったとおりの大量の被害が生じた旨の認識を持っていることを挙げ、かように保険会社に被害感情がないことをもって原告に対する嫌疑が根拠のないものであったと主張しているところ、確かに、《証拠省略》によれば、本件保険会社の担当者であった松田は、保険契約締結の際、在庫を確認した訳ではないが、海苔の取引を記した台帳らしきものを見せられ、それに大量の海苔の取引が記帳されていることをもって、本件保険が過剰でないとの認識をもったと供述していること、また、本件火災の損害算定に携わった和田も原告から騙されたという意識はない旨供述していることが認められる。しかしながら、前記証拠によれば、松田も、一部やや過剰な部分があったのではないかとの印象を持ったとの趣旨の供述を捜査段階でしたことがあるほか、同人自身在庫を確認している訳でもないことが認められるので、海苔の在庫及び取引量に関する松田の供述を重要視することはできないし、また、保険金支払いの経緯については前記のとおりであって、本件保険会社内部でも原告に対する保険金の支払いについて疑義がなかった訳ではないのである。してみると、原告主張のように本件保険会社の認識に着目したとしても、それで直ちに原告に対する嫌疑が払拭されるというものでないことは明らかと言うべきである。

3  以上のとおり、原告は本件保険金請求当時、資金繰りが逼迫しており、更に公害問題への対応に苦慮していたなど、保険金詐欺を敢行する動機は充分にあったと考えられる状況であったと言えるところ、原告が本件保険金請求の疎明資料とした各書類の信用性に関しては、重大な疑問点が多々あったのであるから、原告が甲野商店との取引につき、故意に架空の取引を計上し、虚偽の資料をもって本件保険金請求をしたとの変更後の訴因につき、有罪を取得しうると判断して本件訴因変更を行った検察官の判断は、合理性を有するものであって、このことは、事件を差し戻す旨の判決をした控訴審判決が、同時に訴因変更による有罪判決の可能性を示唆したことに基づき、本件訴因変更請求に至ったという経緯があること、また、差戻審判決も原告に対する前示のような疑惑を払拭しえないものとしつつも、なお原告が保険金を詐取したと断定するには証明不十分である旨判示して無罪の判決を行ったことからしても窺われるところである。結局、本件訴因変更が違法であると言うことはできず、したがって、変更後の訴因と公訴事実の同一性を有する本件起訴も違法でないことに帰着する。また、起訴ないしは訴因変更が違法とは言えない場合、特段の事情のない限り、その後の公訴追行も違法ではないと言うべきであるところ、そのような事情は何ら認められないから、変更後の訴因についての公訴追行も同じく違法とは言えない。

三  よって、その余の点につき判断するまでもなく、本訴請求は理由がないから棄却し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条を適用して主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官 足立昭二 裁判官 大原英雄 裁判官喜多村勝德は転補のため署名押印することができない。裁判長裁判官 足立昭二)

〈以下省略〉

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